長沙民政職業技術学院 遺体管理学教授 伊藤 茂 氏
口腔内の環境
昭和の時代ではあるが、微生物学の実習で人体の各部位や生活環境の細菌培養試験を行ったことがあった。
口腔内、表皮、頭皮、鼻道等に加え、缶ジュースの飲み口周囲の拭取り採取、培養実施による結果を比較検討した。
当然ながら口腔内の培養結果は多種な菌が検出され、口腔内には数多くの菌種が存在する結果となった。
人体の各部位との比較で、獣医学部の動物舎で飼育されていた動物でも検体採取をさせてもらい、牛の鼻の表皮の拭取り採取を行い、同様に培養を実施した。
女子学生の口腔内からは多種の細菌が数多く検出されたが、牛の鼻からは僅かな菌種と僅かな数の菌数しか検出されなかった。
牛に負けた女子学生は、しばらくの間は「牛より汚い」と冷やかされていた。
牛の鼻は舌(牛タン)で常に舐められており、舌によるスクラブ効果と唾液による抗菌効果(アミラーゼ、リパーゼ、リゾチーム)により、常に清潔状態が確保され、ヒトの皮膚や口腔内、鼻道や鼻腔よりもはるかに清潔であることが理解できる。
健常者の口腔内は歯磨きや飲食、唾液の分泌によりある程度の清潔度は保たれているが、疾病や投薬により唾液分泌が低下した場合や病床等では「明らかに口腔内状態は劣悪」となる。
これらは、臨床現場である院内や在宅現場では常に遭遇していることであり、看護師には常々直面している問題と思われる。
緩和ケア病棟では、口腔内ケアを怠ると肺炎やその他の炎症を引起すことがある。
その他の病棟においても口腔内ケアは重要な課題であり、看護では重要な課題である。
口腔内ケアは生体、特に有病者には重大な問題であるが、ご遺体にとっても重大な問題である。
医療施設内で死亡したご遺体は、清拭や死後入浴等が施され、表皮は比較的キレイな状態が保たれており、ご遺体表面(表皮)からの臭気は通常状態であれば気になるレベルではない。
しかし、ご遺体表面の清拭に比べると「ご遺体の口腔内ケア」は軽く考えられており、
疎かにされている傾向がある。
ご遺体では唾液分泌は無く、飲食や歯磨きも行われないために、死後の口腔内環境の悪化進行は顕著である。
ご遺体の口腔内環境が悪化しても既に死亡した状態なので、身体に対する悪影響は無いが、ご遺族に対する影響を配慮する必要がある。
ご遺体口腔内ケアの意味
ご遺体では生体と異なる口腔内ケアの意味合いがある。
生体では口腔内を清潔に保つことは感染等の防止にもなるが、ご遺体では感染防止のための口腔内ケアの意味は無い。
ただし、G3号以上のご遺体では飛沫核対策の意味では、ご遺体の口腔内ケアは意味があると言える。
ご遺体の口腔内ケアの意味(目的)は「臭気対策」が主である。
ご遺体の口腔内は唾液分泌の停止により洗浄効果や抗菌効果が失われ、死亡直後と比べると死後経過時間と共に悪化する。
口腔内は死後も適度な温度、適度な水分(湿度)、有機物が存在している。
また、口腔内には食物残渣や吐瀉物、剥がれ落ちた口腔内粘膜組織が存在し、これらが口腔内細菌の増殖の材料にもなる。
朝起きて直に「うがい」をすると、うがい水に「赤い糸くず状の物」が出てくる。
これは就寝中に口腔内で剥がれた口腔内粘膜と連鎖球菌等から成り立っている。
これと同様に、死後も口腔内でのあらゆる細菌増殖が頻盛に行われ、ご遺体から発生する臭気の一因となる。
腐敗臭気や疾病臭気に比べると口腔内臭気は臭気レベルも低いが、疾病臭気の様に発生を抑制できない物ではなく、腐敗臭気と口腔内臭気は発生を抑制できる物である。
通夜や葬儀で絶え間なく線香を焚くのは「ご遺体からの臭気を防ぐ目的」もあった。
国内ではドライアイスの使用が始まるまでは十分なご遺体対策がなされていなかったため、夏季に死亡したご遺体は、状況によっては翌日には強い臭気を発していたが、これらを誤魔化すために線香をたいて悪臭をマスキングしてきた。
しかし、悪臭に対してより強い臭気を上乗せするマスキング法を行うよりも、臭気の発生自体を抑える方法が最適であり、ご遺体からの口腔内臭気も発生を抑制することが重要となる。
口腔内は開放された部位であり、腹腔内腐敗の様に密閉腔ではないため膨満等の形態的変化を伴わないが、体外までの排出経路が非常に短く、臭気は発生源から直接排出されることとなる。
ご遺体の死後の悪化は、ご家族に対しては非常に重くのしかかる心的重圧である。
防ぎきれない死後変化と防ぎきれる死後悪化があり、看護師としては防ぎきれる死後悪化をいかに抑制するかがポイントとなる。
ご遺体口腔内ケアの意義
ご遺体の口腔内ケアは患者さんの口腔内ケアと大きく異なり、一度のケアで持続させる必要がある。